私の写真にとっての生みの親は裏磐梯、育ての親は天城山です。
写真を本格的に習い始めた2002年から、私は美しい風景を求めて日本各地を撮り歩きました。それと同時にそれは裏磐梯の美しい風景に心ひかれて足しげく通った時期でもあります。「裏磐梯には砂漠以外のどんな風景もある」と地元の人々が言うように、明治時代の磐梯山大噴火でできた多くの湖沼やブナの森が美しい会津地域です。
私が定宿にしていたペンションくらんぼーんのご夫妻は、当時、心に大きな重荷を抱えていた私を家族の一員のように暖かく迎えてくれたものです。そして写真家のオーナーは、毎回、その日に美しいと感じる撮影場所案内してくれました。裏磐梯の美しい自然は、疲れていた私の心を癒し元気にしてくれました。
そして何よりも、厳しい雪国の自然は「静」、つまり「じっとその時を信じて待つこと」や「耐えること」「困難さを受け入れること」などを教えてくれたような気がします。「明けない夜はない。いつか必ず寒い冬も過ぎ去り、暖かい春が来る・・・だから、焦らずゆっくり進んでゆけばよい」そんなメッセージを北国の自然から受け取ったような気がします。
しかし2006年頃になると、次第に自分の足で動けない窮屈さや、連れて行ってもらった撮影場所でしか撮影できない物足りなさを感じ始めていました。「多くの写真家たちが集まるスポットから眺める一般的な裏磐梯ではなく、もっと懐深くに分け入って、ありのままの自然の姿と出会いたい。」しかし、私が行きたいと思った地域にはクマが多く出没するため、独りで森に入らないほうがよいとのアドバイス。結局、私もそれを振り切って行動することもなく、望みが叶うことはありませんでした。
そしてそんな時に出会ったのが、伊豆・天城山です。
天城山は伊豆半島のほぼ真ん中に位置する連山で、アマギシャクナゲの自生する花の百名山としてよく知られています。伊豆だから一年をとおして温暖な気候なのだろうと思ったら大間違い。冬には北西の季節風がまともにぶつかるため、積雪はかなり多く、しばしば森の木々には霧氷もつきます。
天城山に通いながら、私が何よりも心ひかれたのが、天城山に点在するブナの森でした。しかし、残っているブナたちも温暖化や酸性雨で痛めつけられ、急速に消えゆく運命にあるようです。森のあちこちで大木が倒れて朽ち始めています。また、鹿害もひどく、ブナの足元にあるのは、毒があるため鹿も食べないアセビの新芽ばかりです。今や貴重な天城山のブナの森は、アセビとヒメシャラの森に変わりつつある状況なのです。
私に天城山を紹介してくれ、その山をテーマに写真集を3冊も上梓されている写真家は曽我定明さんですが、彼にとっての天城は「情念の森」という心象風景です。しかし私は暗い森の心象風景というよりも、「天城のいのちの物語」をテーマに据えました。ブナの大木の下ではアセビの新芽が真っ赤なじゅうたんを作り、沢の近くではスミレやヤマアジサイなど、可憐な花々が命を輝かせています。朽ち果てている倒木からはキノコがそのいのちを受け取り、それを目当てに虫たちも集まります。つまり自然の中では何一つ無駄なものはなく、果てるいのちでさえ、それは次のいのちの糧になっているのです。
実は、私が天城山に通い始めた時期は、実家の家族が相次いで倒れるなど、多くの辛い喪失体験が続いた時期でした。したがって森のいのちのたくましさやしたたかさと同時に、はかなさや無常感などに自身の体験を重ね合わせていたのでしょう。
天城での撮影は述べ50日を超え、ほとんど毎回、単独での撮影でした。いのちの輝きに心ときめかせながらも、「生きるというのはどういうことなのだろう?」そのような答えのない答えを問いかけながら山を彷徨したような気がします。
1週間違っただけでも全く異なる表情を見せてくれる天城の自然ですが、時として大変心細い思いをする撮影の旅でもありました。霧でまったく視界がなくなり、道を失いかけたこと。膝をついて撮影しているすぐ脇にマムシが出たこともありました。しかし天城山での撮影をとおして、私は「動」、つまり自分の足で動けることの素晴らしさ、困難とぶつかったときの動き方や、歩き続けることの勇気や大切さなどを学んだような気がします。それは裏磐梯で「静」を学んだときの教えとは全く反対のものでありました。
天城山で撮影した数多くの写真も、このHPではごく一部しか掲載していません。まだまだ撮りきれていないと感じますが、お気に入りは200点ほどあります。ほぼ同じ数だけ、裏磐梯や日本各地で撮った風景写真もありますので、いつの日か心の軌跡を記録する「自分史」的な写真集や写真展としてまとめられるといいなあと思っています。ただ、他にも多くのエネルギーを費やさねば成し遂げられないPJがいくつもあり、どれから優先的に取り組むべきか、正直なところ悩んでいるこの頃です。